迷って悩んでそれでも歩く

仕事、Yoga、日々の迷いや悩み

きほん その3

みなさまこんばんは。

 

当直を理由にサボってました。

今日もきほんについて書いていきます。

 

「ユニークで、楽しく。」

みんな一緒、じゃつまらない。

不完全さ

ユニークさ

人間らしさ

それらを出していくことで、

面白み、楽しみが生まれていく。

 

 

周りと同じように動き、当たり障りなくこなしていけば、

確かに批判は受けないし、一定の成果は出る。

 

でも、そこにユニークさは無く、

なぜそれを自分がやるのかが見えてこない。

 

大道から外れることは良しとは言えないけれど、

寄り道、脇道に目を向けることで、

自分しか知らない道があるだけで、

同じ道でも人とは違って見えてくる。

 

その道を知っているだけで、

ちょっとしたその人らしさがあるだけで、

そこに人は魅力を感じる。

 

 

ちょこちょこ外れがちな人生。

ちょっとは魅力が出てくるかしら。

 

 

いまいちまとまりに欠けました。

 

おしまい。

明日は大事な日なのでお休みします(1日坊主!)。

きほん その2

皆さまこんばんは。

 

今日のきほん。

「誰でも知っていること」

誰でも知っていることに目新しさは無い。

というのは間違いで、

誰でも知っていることこそ、そこに普遍的なテーマがあり、

新しさをいくらでも見出すことができる。

 

 

昨日の「新しさ」にも通じるところがありますが、

誰でも知っているからといって、

それをなあなあにしてしまってはもったいない。

誰もが知っていることだからこそ、

そこに新しい視点を持ち込んだり、

改めて丁寧に見直してみることで、

新たな発見につながったり、

より深みを持って取り組んだりできるようになる。

 

普段の診療でも、肺炎や貧血などは日常的で、

ルーチンに見ている部分が多いけれど、

それをたまに見直してみるだけでも、

新しい発見があるかもしれない。

 

明日は早速肺炎について見直してみよう。

 

 

今日の少しの一歩が、明日に繋がりますように。

 

 

おしまい。

年末に向けて“きほん”を見直してみる

皆さまこんばんは。
またまた発信が滞ってしまいました(滞るというほど続けていない…)。
が、何度でもやり直します。

 


ということで、久々のブログ投稿ですが、
しばらく「きほん」について、書いてみます。


というのも最近、松浦弥太郎さんの書いた、
「しごとのきほん くらしのきほん 100」
という本を読む機会がありました。


松浦さんといえば、雑誌「暮しの手帖」の編集長ですが、
その松浦さんが日々大事にしていることをまとめたこちらの本。
この本に出てくる言葉たちが、日々の生活で刺さる刺さる。


そんな「きほん」について、
自分の日々の仕事や生活を振り返りながら、
書いてみます。

 


本日の基本
「今日の新しさ」を毎日生み出す。
一日に一つでも良いから、「新しさ」を付け加える。
イデア、工夫、なんでも良い。
そうすることで、自分も毎日、「新しく」なれる。

 


「新しさ」を加え続けるのってかなり難しいと感じます。
一日を振り返ってみても、
多くのことはあまり考えずにやっているように思います。
食事、排泄、睡眠などの基本的な部分。
仕事、会話、買い物など社会的な部分。


何か「新しいこと」や「変化」を意識して行動する。


普段の診療でも、
ある程度型が決まっているからこそスムーズに行く部分はあるけれど、
それゆえに、その枠から外れた部分には気が回らない。
同じとこしか見なかったり、同じことしか聞かなかったり。。。


自分で書いていて耳が痛い。。。


明日からは、一人にでも、一つでも良いから、
何か新しいことを聞いてみたり、
今まで見ていなかった部分を診察してみたりしようかしら。


そうすれば、マンネリ化しがちな毎日が、
少し変わるかもしれない。
その少しを、少しづつ積み重ねることができれば、
気づけば大きな変化にもつながるかもしれない。

 


今日は「新しさ」について考えてみました。


明日は少し違った日になりそうです。

 


おしまい

鬼滅の刃を見て心が・・・

みなさまこんばんは。
 
急に寒くなりました。
日中は太陽が気持ちいいですが、朝晩は冷えますね。
鼻水が止まりません…
 
 
さて、昨日は夏休みの残りの半日を使って、
午前中に映画を観に行ってきました。
もちろん、「鬼滅の刃 無限列車編」を。
 
映画を観にいくこと自体久々で、
且つアニメの映画なんてさらに久々のびさでした。
Amazon primeで見たりはしてましたけど)
 
鬼滅の刃はジャ○プで途中から途中まで読んで(なんという中途半端…)、
自粛期間中にAmazon primeでアニメ放送分を全話見ていました。
 
何かと話題作ということもあって、
ちょっと映画館という空間におっかなびっくりでしたが、
観に行ってきました。
 
 
ちなみに、朝一の映画館は空いていて、
他の観客の方とも十分スペースを取ってゆったり観ることができました。
 
 
今回の鬼滅、なんと言っても、煉獄さんの熱さ、
それに尽きる!
 
夢の中のシーンでも所々泣きましたが、
やはり終盤、煉獄さんの生き様に心打たれ、
その最期の言葉や思いに、泣きました。
 
 
 
「君が足を止めて 踞っても
時間の流れは止まってくれない
共に寄り添って悲しんではくれない」
 
個人的には、この部分が
グサっ
ときました。
 
「そうだよなあ、悶々とした日々を過ごしていても、
時は変わらず過ぎていってるんだよなあ。。。」
「心燃やすって、かっこいいなあ」
 
そんなことを考えながら、男1人、涙していました。。。
 
 
その日の午後は仕事だったので、
興奮冷めやらぬまま病院へ。
 
ところが、一般内科医である私は、ふと考えてしまいました。
「心を燃やせ」とは言ったものの、
じゃあ日々の仕事で、どう心を燃やしていったらいいんだろう?
 
鬼を倒すわけでも無ければ、
手術のように手を動かして何かをなすわけでもない。
 
どこに、なにに、心を燃やせばいいんだ?・・・
 
 
その答えは、まだ見つかっていません。
 
でも、今回映画を観て、
心って燃やすことができるんだということに気づきました。
 
心を燃やして、熱く生きる。
胸を張って生きる。
それはうまくいっている時でも、
辛い時でも変わることなく、燃やし続ける。
ただ「夢中になる」とも少し違う。
 
そんな、心を燃やし続けながら、生きていく生き方。
 
かっこいいなあ。。。
 
 
おそらく、この映画で煉獄さんに感化された人が多いんじゃないかと思います。
 
コロナで冷めてしまった日本に、
少しでも熱さが戻ると良いなあ。
 
 
まとまりに欠けましたが、
鬼滅の刃 無限列車編を観ての感想でした。
 
 
心、燃やしていこう。

10日間でできること

こんばんは。
 
9月も中盤に入り、だいぶ涼しくなってきました。

私の大好きな夏は終わってしまいましたが、

虫の音が耳に心地よいこの秋も、過ごしやすく、これまた好きな季節です。
 

とはいえ、2020年も残すところあと4ヶ月。

コロナに振り回されたこともあり、

気づけばもう後半戦という感じでしょうか。

 

私自身は、働き方が流動的になった部分はありますが、

何かをなしたかと言われると、どうだろう?

 

皆さんはどうでしょうか?

 

 

先月、10日間必死に何かに取り組んでみる、という企画をやっていました。

ただ、具体的に何に取り組むかを決めずにスタートしてしまったので、

いざ始めてみて、何をどう必死に取り組めば良いか迷ってしまい、

結果、 中途半端な感じで10日間が経ってしまいました。


10日間はあっという間ですが、何かに取り組むにあたって、

それほど短い時間でもありません。

その10日間を終えてみて、目立った成果も出せず、

必死に取り組んだかといえば、全くそんなことはなかったこともあり、

とても悔しい気持ちになりました。

 

一方で、日々どれだけなんとなくで過ごしてしまっているか、

何かに意識を向けて生きていないことに気づくきっかけにもなりました。

そこに気づくことができただけでも、やった価値はあったなと思います。

 


8月終わりにもう1度、10days企画として、

「パートナーと向き合う」

ということをテーマに過ごしてみました。


6月に彼女が職場を移動してからというもの、

夕食後に横になって、そのまま寝てしまうことが続いていました。


職場の移動はやはりそれなりに負担はあり、

慣れない仕事で疲れもあるのはわかっていました。

それでも、明らかに元気がなくなっていて、

グダッてしまっている彼女を見るのは、

見ていて辛いものがありました。


無理やり起こしたりもしてみましたが、

なかなか上手くはいきませんでした。

 


そんな中、私の母親から自分向けに、

「ここ最近は渡せてなかったから」

と誕生日プレゼントが送られてきました。


それがストレッチポールでした。

実家にも置いてあり、使っていて気持ちいいな〜と思っていたものでした。
彼女に「1日5分で体のバランスが整うよ〜」

と言って使うことを勧めていたら、

徐々に彼女も慣れないながら使い始めてくれました。

 

そして数日後、こんなことを言われました。

 

「これに横になってゴロゴロしてると罪悪感がなくなる」と。


『!!!』

という感じでした。


それまで私は、

どうやったらゴロゴロをやめさせられるか、

どうすれば寝たあとに起こすことができるか、

と、どうすれば行動を変えさせる(やめさせる)ことができるか、

そればかりを考えていました。

それが、ストレッチポールが来て数日で、

横になってもそのまま寝てしまうことが減りました。

 

彼女にとって横になる、ゴロゴロするにはそれなりに理由が何かあって、

それでうまいことバランスを取っていたんだと思います。

それを無理やり変えさせようとしても、むしろそれはマイナスで、

余計に彼女を疲れさせることになっていたのかもしれません。


横になることに変わりはないけれど、そこに少し変化を加える、

前向きな要素をプラスする、それだけでこんなに捉え方が変わるんだ!

と実感できた出来事でした。

 

 

そんな気づきがあったこともあり、

9月に入ってから、同じように10日間で何かに取り組んでみよう、

ということをやってみています。


9月最初の10日間は「捨てる」をテーマにしてみましたが、

結局ほとんどものは捨てられませんでした。

それでも、捨てるのは物に限らず、凝り固まった考え方や、

自分のよくない癖なんかも捨てる対象だなと気づくことができました。


今の10日間は「形にする」がテーマ。

このブログも結局途切れ途切れできていますが、

この10日間は少しでも記事を書いて、形にして、

outputしていくことに取り組んでいきます。

 


おしまい


ちなみに、これを書いている間、彼女は寝ずに塗り絵をしていました笑


 

母と子の一日

先日、母親が足腰を痛めて動けなりました。
家で様子を見てもどうにもならなそうだったので、急遽仕事を休んで病院に付き添うことにしました。
 
 
受診当日
朝からタクシーを手配。足を引きずりながら乗っていざ病院へ。
着いたら車椅子を借りて、病院の中を行ったり来たり。
車椅子を押して、エレベーターに乗って、トイレに行って…
 
ふと周りを見渡すと、同じように高齢になった親とその子どもの組み合わせが多い。
仲良さそうに歩いている人もいれば、認知機能が落ちてしまった親に対して少しイライラ気味の子供と戸惑う親、いろんな親子の形があった。
病院に勤めているので見慣れた光景なはずだったけど、
いざ自分が患者、家族側になって見える景色はまた違うものだった。
 
 
子供の頃は親に連れられてよく病院に行っていたなあ。。。
今は立場が変わって、自分が親を病院に連れに行っている。
(親はどう思ってるのかな?)
 
車イスをゆっくり押しながら、そんなことを考えていたら、
何故か自分がとても温かい気持ちになっていた。
なんで、一見何でもなさそうな日常の一コマが、
こんなにも愛おしく感じたのだろう。
 
 
一つには、親と離れて暮らしている中で、
今となっては親といる時間が非日常だから、
そこにある種の新鮮さを感じたのかもしれない。
 
もう一つには、母親の今の病状、
齢70を前にいろいろ身体の不調が出てきている姿が、
悲しくもあり、でもそこに母親が子供を見るような、
愛おしみもあったように思う。
 
まだまだ元気だけれど、そうは言っても70歳。
加えて最近の不調続き。
あまり先のことは考えたくないし、まだまだだと思っているけれど、
でも、確実に来るであろう最期の日。
子供だったあの頃は非現実的で、来るはずないと思っていたその日。
それは、大人になって、少し世界が見えるようになってきて、
今までよりも現実味が増して感じられる。
 
恐らく自分の中でのそういう変化があって、
子供の頃に感じていた来るはずのない遠い未来は、
実は気づいたら見える位置に近づいてきていて、
でもそれを感じるからこそ、
一緒に過ごす時間がより一層愛おしくて、嬉しくて、
でもどこか切なくて。
 
そんなことに気づき、考えていた一日だった。
 
一緒に時間を過ごすことができていることが、幸せに感じた。
 
 
親と子の関係は時に複雑で、我が家とは全く違う環境もあることと思う。
 
私は、個人的には親から愛をかなり受けて育ててもらえたと感じている。
親の無条件の愛ってすごいなと思う。
 
その感覚を、少し感じることができた1日だった。
愛を持って接することで、それは人の心を温かくし、
自分の心も温かくなる。
 
 
「(車椅子を)ゆっくり押してくれて安心するね」
久々に褒められて嬉しかった。
 
 
皆さんは、親とどんな時間を過ごしていますか?
 
 
 
おしまい

パートナーに怒られたことで見えてきたこと

おはようございます。

暑くなってきましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

夏が好きな私としては、夏が来るのが待ち遠しい今日この頃、

とりあえず今月からサンダルで生活しています。

 

 

先日、とある失態をしてしまいました。。。

 

その日は早めに仕事も終わり、

そろそろ帰ろうかと考えていたところ。

そこに、とある上司がやってきて、

「あそこのお店、今日からやってるみたいだし、いこう!」

と飲みに誘ってきました。

 

お酒が大好きな上司、というか飲むのが日課なので、

何かあっても無くても誘っていただけます。

 

この日もそんな感じで誘って頂いたのですが、

私としては、

「う〜ん…まだ週の始めだし、飲みにいく予定は無かったけどなあ」

「でもいつも誘ってきてくれて、最近は断ることも多かったから、今日は行っとこうかなぁ」

心から行きたい訳ではありませんでしたが、

なんとなくの流れでその日は行くことにしました。

 

いざお店に行ってみると席はカウンターがぎりぎりあるかどうか。

私が先に着いたので、2人いけるか聞くと、

「厳しいかも〜!」と。

しかし上司はそこの常連だったこともあり、

後から上司がついたところでもう一度聞いてみると、

「カウンターだったらなんとかいけそう!」

と入ることができました。

 

結局そこで2時間ほど飲んで話し、上司はもう少し飲んでいくとのことで、

私は一足先に帰ることにしました。

 

 

問題はその後でした。。。

 

家に鍵を開けて入る。

テレビの音はするものの、どこか静か。

どうも帰ってきたときの感じがいつもと違う。

テレビを見ている彼女。

「ただいま〜」

「おかえりー」

明かに、「おかえりー」のトーンが違う。

?と思いながらも、彼女は歯を磨きながらテレビを見ているし、

私はさっさとシャワーを浴びることにしました。

お風呂から上がり髪を乾かして部屋に戻ると、

テレビは消え、そこに彼女はいません。

 

寝室に行ってみると、横になってスマホを見ています。

まだ22時になったばかりでした。

 

「あれ、今日書類書くって言ってなかったっけ?」

「今日は書きません」

………泣き…

 

そこではっとしました。自分のやってしまったことに。

 

 

年明けからパートナーと同棲を始めていて、

慣れないながらもお互い新しい生活の中で楽しく過ごしていました。

結婚にむけての準備もし始めていたのですが、

コロナの影響で動けなくなり、入籍もできていませんでした。

以前から届出の書類を書こう書こうと言いながらも、

仕事やらなんやらでなかなか書けない日が続いていました。

 

そう、当日は入籍届を書こうねと、前日に話していたのでした。

 

飲んだ日の帰り道、ふとそれを思い出していた私は、

「帰ってシャワーを浴びて書くか」と軽い気持ちでした。

しかし、帰ってからの一連の流れは先に書いた通り。

「あれ、今日書類(入籍届)書くっていってなかったっけ?」

「今日は書きません」

………泣き……

 

 

「ずっと待っててくれたのかな」

「昨日書こうねって言ってたから」

「惨めで、寂しい思いをさせてしまったのかな」

軽い気持ちで飲みに行ってしまったけど、

やっちゃいけないことをしてしまったんだな。。。

 

弁解の余地は無く、その日は「ごめん」とだけ伝えて、

その後は会話無く就寝。

 

翌朝はなんとも言えない雰囲気で出勤。

もやもやしながらも仕事はなんとか終えて帰宅しました。

 

食事の準備中、彼女が話しかけてきました。

「なんで怒ってるかわかる?」

 

僕は昨日の振り返りのもと、

「書類書こうねって言ってたのに、書けなかったから」

「約束破っちゃったから」

と答えました。

 

 

しかし、彼女の答えは違いました。

 

「そもそも今この状況で飲みに行ったことに怒ってるの」

「もし万が一それでコロナに感染でもしたらどうするの?」

「自分だけじゃ済まないよ?」

と。

 

書類のことで怒られるとばかり思っていた私は、

最初は、「そっち?」と思いましたが、

すぐに彼女が正しいことに気づきました。

 

コロナウイルス感染の今日この頃。

飲みに行った当日は緊急事態宣言も明け、

一旦感染が落ち着いたように見えてきたところでした。

お店はそれなりに賑わっていましたが、

多人数で集まった訳ではなく、時間も短めで終わったので大丈夫、

そんな軽い気持ちでした。

 

しかし、まだ完全に感染が収束した訳ではなく(するかどうかもわかりませんが)、

仮にも自分が医療職であるなかで、感染のことを少しでも考えるなら、

飲みに行くのはまだ時期早々でした。

もし万が一感染した場合の、その先の影響までも見越しての、

彼女の怒りと言葉でした。

 

それはただの怒りの言葉ではなく、

私のことを心配する気持ち、周りへの配慮、

それ故の怒りなんだと気づいた時に、

自分の惨めさ、自分のことしか考えていないことへの恥じらい、

と同時に、彼女の優しさを感じました。

 

 

あの日飲みに誘われた時、

「いつも誘ってくれるからたまには」の裏には、

「断って嫌われたくない」「あとであれこれ言われたくない」

という気持ちもありました。

 

結局、今回の一連の出来事で私は自分のことしか考えておらず、

結果、上司にも彼女にも失礼なことをしてしまっていたことに気づきました。

 

 

幸い、翌日には仲直りができて、無事書類も書くことができました。

 

今回の一件、自分の視野の狭さ、認識の甘さを実感しましたが、

同時に学び多いできごとでもありました。

 

 

ここ最近は自分と相手との関係性だったり、

日々の出来事からの学びだったりを少し意識するようにしていますが、

(それなのにこの事件でかなり恥ずかしいのですが…)

そのおかげで、今までよりも反省の具合というか、

そこから何を反省し、気づき、学ぶか、

というものが深くなった気がします。

 

もし何も意識せず、考えもせずに今回の一件を起こしたら、

おそらく反省こそすれ、そこに深い反省は無く、

彼女の発するメッセージにもあまり気づかなかったかもしれません。

 

日々の中で何かにつけ意識をむけるクセをつける。

そこに学びはあるかを意識してみる。

それだけで、停滞しがちな人生が今までよりも前に進む気がします。

 

 

いまいちまだ表現力に乏しい部分、

書きたいことが明確にならない部分が多いですが、

なるべくブログの更新を通して、

自分を見つめ直す機会にもしていきたいと思います。

 

 

ではまた次回。

 

おしまい