迷って悩んでそれでも歩く

仕事、Yoga、日々の迷いや悩み

読書記録 「残り2年」の生き方、考え方

みなさま、おはようございます。
 
都内は雨。
久々の雨で気持ちいいですが、
走りに行けないのが残念です。
 
雨の日でも走りに行けるウェアを揃えようかしら。
 
 
 
今週も1冊読んでみました。
 
 
43歳という若さでがんと診断された緩和ケア医の話。
まだ現役で働いてらっしゃいますが、
診断の時点でStageⅣ、
なかなか酷な宣告を受けてからの今まで、
そしてこれからの生き方、考え方を綴っています。
 
 
1章 宣告
がんの宣告を受けてから診断、治療への流れ、
心のありようの変化、
家族との関係、
などがありありと描かれています。
 
「死ぬ瞬間」で言われている、
「死の受容」のプロセスについても触れられています。
 
死にゆく過程の中で、
・第一段階「否認」(現実の否定)
・第二段階「怒り」(「なぜ自分が」という感情)
・第三段階「取引」(死を回避する条件を考える、神にすがる)
・第四段階「抑うつ」(運命に対し絶望する)
・第五段階「受容」(希望との別れ)
こういった段階を経て、
やがて死を受容していくというものです。
 
 
しかし、関本先生は、
いざ自分ががんになってみるとそんなにきれいに、
この段階を経るわけではないことに気付いたとのこと。
 
 
もちろんこの過程を一定経験はするとは思いますが、
時には後戻りもするでしょうし、
時には飛躍もするでしょうし、
この五段階+αが入り混じった状態なんでしょうね。
 
 
 
ただやはり、
40代でこれを経験することは、
なかなか大変なことだと思います。
 
 
2章 医師への道
関本先生の生い立ち、医師を志し、
緩和ケア医となるまで。
 
3章 死について思うこと
「死」を意識することで見えてきた日々の変化。
治療のこと、患者さんとのこと、
そしていつしかくる自身の「死」について考える。
 
4章 生きてきたように
最後まで車を運転したい人。
最後までタバコを吸っていたい人。
代替医療をとことん試したい人。
 
その人の生き様は、
その人の死に様に反映される。
 
生き様は人それぞれ、
死に様も人それぞれ。
 
「人は生きてきたように死んでいく」
「よき死」は「よき生」から生まれると説いた、
柏木哲夫先生の言葉だそう。
 
 
 
私自身病院で働いており、
死に触れる場面は多いが、
「よき死」「よき生」
について考えさせられることは多い。
 
 
もちろん、
患者本人がこの先どう生きていきたいのか、
あるいは死にゆく過程でどう死にたいのか、
を聞き、あるいは汲み取ることは大事だが、
それと同じくらい、
家族がどう思っているのか、
も大事かなと最近はよく思う。
 
高齢の親を介護する独身の子供、
認知症のい一筋縄ではいかないケースは多く、
かつ一般化できない部分が多いので、
その患者毎にあれこれ考えを巡らせる必要がある。
 
特に、認知症が進んでしまっている患者さんの場合、
本人にあれこれ考えてもらうことはもはや難しく、
家族もそこまで認知機能が落ちていると思ってなかったりすすので、
方向性を決めていくのはなかなかに大変。
 
 
患者さんが、1人の人として、
どのように生きてきたのか。
これをもっと意識する必要があると感じた。
 
 
5章 最高の人生に向かって
これからのこと。
死を意識する中で、どう生きていくのか。
 
 
 
医師を目指す高校生に向けたメッセージ
関本先生が母校である六甲学院高校で2020年に行った講演のダイジェスト版。
その最後のほうにこんなことが書かれていました。
 
 
”これは緩和ケアに限った話ではありませんが、医師の仕事のやりがい、特権のひとつには、患者さんの人生の1ページに参加させてもらえる、時には脇役を演じられることだと思います。”
 
 
確かに、病気になって入院するということは、
人生においてそれなりに大きなイベント。
そこで患者さんと関わりをもつ医療者は、
確かに患者さんの人生ストーリーのキャストに含まれるかもしれない。
こと医師に限って言えば、
患者さんの治療方針を決める立場にあり、
与える影響は大きく、
脇役として出演させてもらえるかもしれない。
 
そんな時、脇役が微妙だったらどうだろうか。
なんとなくで演技をしていたらどうだろうか。
主役が引き立たないだけでなく、
ストーリーそのものが台無しになってしまうかもしれない。
 
 
名脇役となれるよう常に準備をして、
いざ抜擢となれば、
しっかり主役を引き立てられるよう、
精一杯のサポートをする。
 
そうなれるよう、日々精進。
 
 
最後に気が引き締まった今回の本でした。
 
 
 
おしまい。

読書記録 痴呆を生きるということ

みなさまこんばんは。
昨日時間があったので読んでみました。
 
 
2003年が第一刷の本書。
今でこそ認知症という言葉が定着していますが、
こちらの書籍では「痴呆」のみで、
認知症という言葉が出てきません。
このページも、本書に合わせて、「痴呆」メインで使っています。
 
著者は京大卒の精神科医である小澤勲先生。
 
痴呆を病む人たちから見た世界、
その不自由さ、不便さ、
不安や憤りといった感情、
それらが小澤先生の詳細な観察のもと、
ありありと描かれています。
 
 
今読んでも、「なるほどなあ」と思うことがたくさん。
 
その中のいくつかを今回は紹介します。
 
 

第3章 痴呆を生きる心のありか

 
・痴呆を病む人の喜怒哀楽
”それが見えないのは、私たちが見ようとしていないだけである”
”診察室で一方的な視線に彼らをさらしても見えてこない”
 
認知症を患っている方達を見ていると、
喜怒哀楽が時に激しく、時に乏しく、
確かにわかりにくいことがあります。
 
そんな時、本書にもあるように、
「ぼけてしまえば、本人は何もわからなくなるのだから幸せですよね、
周りは大変でしょうけど」
と考えてしまうことが私にもありました。
 
本人の思いや気持ちにこちらが思いを馳せるといった、
日常診療ではごくごく普通にできていることが、
認知症というレッテルが少しでも貼られた途端、
どうもうまくできないことがあります。
 
それは、
「どうせ認知症だから、
今怒っていることも、今心配になっていることも、
すぐに忘れちゃうんでしょ」
という思考過程に基づいているように思います。
 
しかし、それはこちら側から見た世界の話であって、
やはり認知症患者さんから見た世界は違う。
少なくとも、彼らが感じている不安や怒りなどは、
然るべき理由があってのもので、
ただそれをうまく理解、表現できないために、
周りも当然よくわからず、
結果場当たり的な対応になってしまう。
 
病院で働いていると、
どうしても他の患者さんがいることもあり、
ゆっくり、時間をかけて、丁寧に、
患者さんが見えている世界を見ようとするには、
限界があるかもしれません。
ただ、それを
”見ない”
のではなく、
”見ようとする”
だけでも、
日々の診療の仕方、
スタッフの患者さんへの対応、
そういったものが変わっていくように思います。
 
 
・老いを生きる
”老いるということは喪失体験を重ねることである”
”問題は老いという事実、喪失という事実を、一人一人の老いゆく者たちが、
いかに自らの体験とするのか”
”痴呆を、そして老いを、名刺として考えるべきではない、
動詞として、つまり、ボケゆく過程、老いゆく過程として捉えるべきである”
 
ははあ…
老いる、その喪失体験の積み重ねを、
日々の生活の中で実感しながら生きていかねばならない…
それは不安にもなるし、怒りや憤りも出るでしょうね。
 
私は今30代。
年は毎年とるけれど、
それを成長とみるか、老いとみるか、
人によってはグレーゾーンと言い始める頃でしょうか。
 
認知機能が概ね保たれて生活をしていればいざ知らず、
認知機能が低下している状態での喪失体験は、
おそらくかなり不安です。
その不安にどれだけ寄り添えるのか。
 
”(認知機能の低下に)加速度がついた時期には、
多くの痴呆を病む人たちのこころにも、行動にも、
からだにも、大きなゆらぎが生じる。
そして、この時期の彼らのゆらぎ、
あるいは不安や焦燥にどれだけ寄り添えるかによって、
痴呆進行の加速度が間もなく減速してプラトーに達してくれるのか、
それとも加速度が衰えず、深い痴呆に至ってしまうか、
が決まるといって良い。”
 
病院に入院して認知症が一気に進んだ、
というのはよく聞く話。
おそらくは、病院という環境そのものが、
認知機能の低下に拍車をかけやすいことは確かですが、
かつ、そこに「寄り添える」時間や人が限られているということが、
ここでいう”加速度”にブレーキをかけることができず、
認知症が進んだ」という結果につながるのでしょうね。
 
ましてやこのコロナ禍。
面会も制限されている中で、
どこまで患者さんに寄り添えるのだろう。
 
 
・徘徊は一つの事象ではない
”漠然とした事象に一つの言葉が与えられると、
本来その事象が含んでいた様々な差異が無視され、
同一の事象と見られがちになる”
 
病棟を見ていると、
熱心にリハビリに励んでいる患者さんがいる一方で、
どうやらそうではないらしい方を見かけることがあります。
いわゆる「徘徊」です。
日中なら人手もいるので、一緒に歩いたりもできますが、
夜間はそうもいかず、
「徘徊している患者さんがいるので眠剤処方してください」
なんてこともしばしば。
 
著者は徘徊を便宜上5つに分けて紹介しており、
その種類によって、徘徊への対応も異なる書いています。
 
例えば”反応性の徘徊”。
馴染みのない場所に置かれることによって生じる
見当識障害と不安から、
硬く、不安げな表情で歩き回る徘徊。
入院して数日の方であれば、
誰しも病棟の地図は把握できず、
多少なりとも迷ってしまうことはあるでしょう。
 
こと認知機能の低下した方となると、
なかなかその新しい世界の地図を作ることができない、
あるいは覚えることができない。
目的の場所を求めて歩き回るのは、
当然といえば当然の話。
こういう類の徘徊の場合、
場所のポイントを決めて、
そこだけでもなんとか覚えてもらうようにすると、
徘徊が減るようだ。
これは日々の病棟でも使えそう。
 
 
・時の重なりが理解を超える
”さらに痴呆が進み、身体で通じ合う原初的関係性
とでもいうべきものさえ失われた痴呆末期の人はどうだろう。
そこでは、彼らのこころを理解することで
関係性をつくろうとする志に限界が訪れる。
”だが、そもそも人は理解が届かなければ人と関係を結び、
人を慈しむことができないわけではない。
食べる、排泄する、衣服を替える、入浴する、
そういった日常生活への援助を日々続ける。
そこから、「ただ、ともにある」という感覚が生まれる。
ともに過ごしてきた時の重なりが、理解を超える。”
 
う〜む…深い…深すぎる…
ここにきてマインドフルネスが見出されているあたりが、
すごいというか、すばらしいというか。
この最後の部分は、ただ読んで貰えれば、それだけでいいです。
 
 
以前、病院を移った先生から頂いていた本で、
最後まで読み切ってませんでしたが、
やっと読めました。
 
”老いるという喪失体験”を日々生きていく。
これを理解するにはまだ若すぎるのかもしれませんが、
少しでも見ようとする、
その姿勢だけでも忘れないようにしたいです。
 
 
朝投稿する予定がすっかり忘れていた…
 
 
おしまい。
 
 

きほん18 正しい方法/新しいこと

みなさまこんばんは。
 
今日は寒かったですね。
昨日は上着を着ていると汗ばむくらいだったのに、
今日は一日どんより、空気もひんやり、スッキリしない天気でした。
 
三寒四温とはよく言ったものですね。
まさにこんな感じで暖かくなってる感じがします。
四字熟語ってすごい。
 
 
今日は午前中に掃除と洗濯、
昼過ぎは最近流行りのclubhouseでお話を聞いていました。
 
とかく目新しいものに引かれやすい性格ですが、
今までTwitterFacebookInstagramなどはほぼ使わずに
過ごしてきました。
一つには、SNSに対する恐怖というか、嫌悪感というか、
マイナスイメージがとにかくありました。
 
自分の発信を誰かが拾って、
それに対してバッシングをして、
そのまま炎上して、
発信した人が病んでしまう。
 
反応ばかりが気になってスマホが手放せなくなってしまう。
 
などなど、あんまりいいイメージがありませんでした。
 
コミュニケーションなんてメールと対面で十分っしょ。
 
そういうタイプでした。
 
 
でも、働き始めて数年のところで、
ひょんなことからFacebookを初めてみて、
そこから世の中にはいろんな世界があることを知りました。
 
中には知らなくてもいい世界もあるかとは思いますが、
それでも、今までの職場、家、だけでは見えてこなかった世界が、スマホを通して入ってくる、
これは新しい感覚でした。
 
かといってまだTwitterもclubhouseも機能はしていませんが、
自分の世界を広げるという意味でも、
活用していきたいと考えております。
 
 
 
さて、今日のきほん。
「正しい方法で」
どんな方法を選ぶか考えるときには、
それが正しい方法かどうかを自問すること。
何が正しいのかはとても難しいけれど、
色々な角度から眺めてみて、
自分都合ではないか、
自分優先ではないか、
自分のエゴが表れていないかを点検しましょう。
こう考えると正しい方法というのは、
愛があるかどうかかもしれません。
 
 
世の中には、何をするにも「正攻法」があれば、
「邪道」「抜け道」もあります。
 
私のテリトリーの医学に限って言えば、
あまり「邪道」的なものはなく、
「王道」をしっかり詰めていく以外に、
医学を修める方法は無いんじゃないかしら。
 
一方、先ほど話題に上げたSNSをベースにしたビジネスは、
おそらく「正攻法」「邪道」「抜け道」
他にもいろんなやり方があって、
採用する方法によって成果、結果が
大きく変わってくるんじゃないかと思います。
 
ネットの情報は玉石混合と昔から言われていますが、
どの情報を信頼するか、
どの方法を採用するか、
どの価値観を採用するか、
それはその人の置かれた状況にもよりますし、
正攻法と思って採用したものが、
実は邪道だった、
なんてことがあるかもしれません。
 
そんなとき、
ふと立ち止まって、
呼吸を整えて、
目の前の選択肢を見つめて、
「ここに愛はあるだろうか」
と考えてみる。
 
そのひと手間をすることで、
見えてくるものは確かに違ってくる、
そんな気がします。
 
 

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この間虹を見つけました!
おしまい
 
 

1年の変化について

お題「#この1年の変化」

 

みなさま、おはようございます。

 

週1で書き続けて、2ヶ月ほど経ちました。

まだまだ書き慣れないですが、

今年はなんとなくで続いております。

 

 

今日はきほん、ではなく、

お題の「この1年の変化」について、

三つ挙げて書いてみます。

 

 

・結婚

個人的には、一番大きかったのはこれでしょうか。

2020年、年明けから一緒に暮らし始め、3月に入籍、

の予定が、コロナでズレズレになって6月に入籍。

ひっそりと2人で市役所で撮った写真が懐かしい。

 

大学以降一人暮らし歴が長かった分、

誰かと一緒に暮らすのに最初は違和感を覚えましたが、

だいぶ慣れてきました笑

こんな時に結婚、

ついているのか、ついていないのか、

間違いなく記憶に残ることは確かだなあと思いながら過ごしています。

 

 

・日々の習慣

昨年は中盤から朝晩の習慣を少し作ってみました。

朝起きたら白湯を作る。

太陽を拝む。

夜は寝る前に少しだけ瞑想する。

ちょっとしたことですけど、

朝の慌ただしい時間でも、

あえてゆっくりした時間を作る、

夜寝る前も、

スマホを最後まで見てないで心を落ち着ける、

日々のバランス、ズレなんかを修正できる気がします。

 

 

・仕事のこと

良くも悪くも、変わらない。

コロナ禍で普段の感染対策や、

働く環境が少し変わったけれど、

医療を提供するという大前提に立った時、

目の前の患者さんに向き合うことに関して言えば、

あまり変わったことは無かった。

これはむしろいいことなのかもしれないけれど。

 

ただ、働き方や新しい分野開拓については、

変えたいと思っているだけで変化は起こせていないので、

そこは個人的にはいまいちでした。

 

 

以上、この一年の変化を三つ書いてみました。

確かにこの一年はコロナに飲まれた一年で、

人間社会にとっては大きな転換期になったように思います。

でも、自然界にしてみれば、

新型コロナウイルスの出現なんてものは

ただの一つの変化に過ぎず、

それで困ることなんて何も無いんだと思います。

人間以外の動植物が大量に失われたなんてニュースも聞きませんしね。

 

 

大きな変化であることは確か。

ただ自然界で起こっている変化の一つに過ぎないことも確か。

泰然自若としていたいものです。

 

 

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そろそろ収穫です

 

おしまい

きほん17 集団思考に気をつける/何のためのマインドフルネスか

みなさんこんばんは。
今日も都内は気持ちの良い晴れでした。
 
私はというと、
あまり眠れなかった当直明けで、
頭が少しポワポワしていましたが、
昼寝をしたらスッキリして、
午後は料理とランニング、筋トレをして、
今これを書いています。
 
ランニングと筋トレのセットはなかなか平日にはできず、
土日のどちらかだけになっていますが、
なんだかんだで続いています。
体重も少しだけ増えてきた感じがします。
とはいってもまだ2月。
2021年、オリンピックがどうなるかわかりませんが、
選手に負けないようにトレーニングに励むことにします。
 
 
さて今日のきほん。
集団思考に気をつける」
組織にずっといると、
物事を判断するフィルターが二重になります。
自分というフィルターと、
会社というフィルター。
「自分としては○だけど、会社としては✖️だな」
チームワークは大切ですが、
自分のフィルターは捨てないこと。
集団思考に流されないこと。
 
 
これは確かになあと思うこと。
 
今の職場は市中の病院ですが、
そこでのものの考え方や判断基準は、
多かれ少なかれ(恐らく多いということになるのでしょうが)
私の日頃の診療に影響を与えています。
 
病院の機能や役割はそれぞれあり、
そこに合わせた考え方、思考が必要になります。
超急性期であればとにかく救命優先、
急性期であれば、救命とその後の患者さんの人生を見据えた方針決定が、
慢性期や療養型では、患者さんの生活や終末期の過ごし方、
それぞれがそれぞれの役割の中での考え方を必要とします。
 
今の環境での思考回路は、
その環境にいる間は是とされますが、
一度他の環境に移ってしまえば、
全然お門違いになってしまうかもしれません。
 
環境に染まり切ってしまえば尚更、
思考回路を変えるのは難しくなってしまいます。
 
そこで、自分の軸、フィルターを、
捨てずに、忘れずに持っておくこと、
そして、
あくまで今の環境でのフィルターは、
自分のもともと持っているフィルターに追加しただけで、
いつでも取り外しできるようにしておく。
新しい環境にいったら、
新しい環境でのフィルターで物事を見てみる。
おや?と思えば、
以前のフィルターをつけて見てみる、
そしてその二つの景色を、
まっさらな自分のフィルターを通して見比べてみる。
 
どちらかがいいのか、
どちらもいまいちなのか。
その景色をどう見ていくかを選ぶのは、自分。
 
 
万能のフィルターはなかなか無さそうですが、
性能の良いフィルターをつけられるように、
毎日磨いていきましょ。
 
 
話は変わって、
昨日出勤前にzoomのセミナーに参加しました。
先日参加した、zen 2.0というオンラインのイベント関係で、
アナウンスがあり参加してみました。
 
テーマは、
「何のためのマインドフルネスか」
 
個人的にヨガや瞑想、禅、
最近ではマインドフルネスに興味があったこともあり、
家にいながら参加できるので、
勢いで申し込んでみました。
 
講師は島田啓介さん、
日本のマインドフルネスの草分け的な方。
 
簡単な瞑想に始まり、
マインドフルネスの流れについて、
日々問いを立てることについて、
マインドフルネスな生き方について、
わかりやすくお話いただきました。
 
 
と書いてみましたが、
正直なところ、
全体的にはどこか捉え所がないようにも思え、
結局何だったっけ?
と思うところもありました。
 
が、
この結論を求めてしまうことが、
そもそもマインドフルネスでは無いのかも。
 
セミナーが始まって早々に、
島田さんが、
「ますます悩んで帰ることになると思います」
と仰いました。
 
「え〜」と思いましたが、
セミナーが終わってみて、
確かにテーマに対する、いわゆる「答え」が示された訳ではありませんでした。
 
 
ただ、それを日々の生活で問い続けるのだと。
そして、多くの問いのタネを撒き続け、
気が熟せば勝手に目が出てくるのだと。
 
 
世に言う、禅問答みたいな感じでしょうか。
でも、不思議とセミナーが終わった後、
「結局何なん?」とモヤモヤするわけでもなく、
「問い続ければいいんだ」と開き直って、
むしろスッキリしたような気分にもなりました。
 
 
もう一つ、話の中で出てきた、
「!!!」
と言う画像。

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そういうことか

このところ、
人生の成功やら、失敗やら、
お金のこと、仕事のこと、
色々考えることが多く、
いろんなセミナーとかをちょこちょこ聞いたりして、
わかったような、わかんないような感じが続いていましたが、
この簡単な4コマが、
ここ最近で一番しっくりきた感じがあります。
 
 
 
 
月一でやっているイベントのようで、
次回のテーマも気になるものになりそうだったので、
参加したいなあ。。。
 
 
おしまい
 
 

願いはかなうか/再会

みなさまこんにちは。

 

昨日は大きな地震がありました。

東北の方は大丈夫だったでしょうか。

(東北の方が読んでいる可能性は極めて低いですが…)

 

東京は震度3〜4。

そろそろ寝ようかな〜と思ってい矢先、

あれ?揺れてるのかな?

と思っていたら大きな横揺れが。

慌てて玄関の扉を開けてしばらく様子を見ていました。

家の前の木が揺れ、

家の中はカタカタ音を立てていました。

幸にして揺れはおさまり、

テレビをつけると、震源地は東北地方。

津波こそ心配ないとテレビでは報道されるも、

都内であの揺れでおっかなびっくりだったので、

現地はやはり不安な夜を過ごしたのでは。

 

 

我が家では一応避難時に持っていくカバンを用意はしていますが、

いざ!って時にさっと取り出す動きはできませんでした。

地震大国日本、やはり備えは常にしておかないといけません。

 

 

話は変わって、表題の件。

 

今日は午前中に病院に行って軽く回診。

みんなお元気そうで何より。

 

帰り道、ふと前から真っ赤なかっこいい車が。

なんとなく助手席をチラ見。

 

あっ!!?

 

1秒にも満たない時間でしたが、

確かにそう見えたような。。。

 

ちょうど交差点が赤だったので止まる車。

数m後ろで振り向く私。

助手席側のミラーで、なんとなく手を振っているようないないような。

思い切って戻って助手席を見ると、

そこにはやっぱり、以前担当していた患者さんが座っていました。

 

「先生!気づいてくれたのね!でもよくわかったわね!」

「なんとなく、ちらっとだったんですけど、まさか。。。と思いまして!」

 

ちょうどお孫さんを連れて、ドライブ中の様でした。

時間にして数十秒から長くて1分ほどだったでしょうか。

これといった話はできなかったものの、

お互い笑い合って、

「ではまた!」

と別れました。

 

 

こちらの患者さん、

私が数年前に担当した方で、

成人Still病

という、ちょっと厄介な病気でした。

当時は熱がバンバン出て、どうなることやらと日々診療していて、

あれやこれやでなんとか診断にこぎつけました。

治療開始後は薬の効果もあり、

比較的元気になって退院していきました。

外来は指導医の先生のところへ通っていて、

カルテ上で元気なことは確認はしていました。

 

退院後、一度だけ街でばったり会ったことがありました。

その時はまだコロナ前でもあり、

しばらく話して別れました。

 

その後も何回か手紙のやりとりをしていて、

数日前にも、

ちょうど入院から二年ほど経ちますね、

といった内容のお手紙をもらっていました。

 

コロナ禍でも通院を続けて、

元気に過ごしている彼女を見ていると、

ほんとすごいなあと思います。

そんな思いとともに返事を書いて、

今週外来に持っていって渡してもらう予定でした。

 

そんな時に起こった今日の出来事。

とても不思議な感覚でした。

まさかこんなタイミングで会うなんて。。。

 

よく、

願いは書けば叶う、

強く思っていれば叶う、

などなど、願いがかなう方法って巷に溢れています。

 

そのどれもが多分正しいというか、

おそらくはそうなんだろうなと思いつつ、

その仕組みってよくわからないと思ってました。

いや、そもそもそんな簡単に願いが叶うってどうなん?

と天邪鬼的にも思ってみたり。

 

でも、今日彼女と出会って、

なんとなく、

その「願いが叶う感覚」が実感出来ました。

 

 

願いは思っているだけだと、

どうしても言語化されていない分、

すぐにふっと消えてしまいます。

それを紙に書くことで、

自分の頭の中で霧のようにモヤモヤしているものが、

雲のようにある程度の形を持ってきます。

そうやって、願いをある程度意識下に留めておくことができると、

普段見ている世界に、その願いのフィルターが追加されて、

見える世界が少し変わってきます。

 

今回の場合、手紙の中でも、

「またどこかでばったりお会いできるといいですね」

と書いていたのですが、

「その患者さんとどこかで会うんじゃないか!」

といった思いを常に持っていたというよりは、

その患者さんの顔を識別するフィルターが、

普段よりも精度が上がっていたため、

ちらっと見ただけでも、その顔が認識できたんじゃないかと。

 

おそらく、手紙をもらわずにいたら、

あっさり見過ごしていたと思います。

 

願いが叶う仕組みが少し実感できた気がしましたが、

そんなことより何より、

患者さんが元気に過ごしている日常を見れたことが、

願い云々を抜きにして嬉しい出来事でした。

 

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いつぞやの夕日、美しい。。。



 

おしまい

きほん16 関係ないことはない

みなさまこんにちは。
 
今日は風が強いですね。
仕事は休みだったので、
走って筋トレして、
洗濯して掃除して、
一息ついてこの記事を書いています。
 
コロナは少し落ち着いてきたのでしょうか?
ワクチン接種もそろそろ始まりそうで、
どうなることやらという感じで日々過ごしております。
 
まあ何よりもおいしい食事と適度な運動、
これに勝るものはないかなと思ってはおりますが、
日々健康に過ごしたいものです。
 
 
そんなこんなで今日のきほんです。
 
「関係ないことはない」
 
忙しさに紛れて、周りのことに無関心になる。
「あれ?」と思っても見てみぬふりで、
「関係ないや」と切り捨ててしまう。
この繰り返しで、自分の世界が閉ざされ、
小さくまとまってしまいます。
関係のないことは何もありません。
何かをすれば、何かに影響を与えるし、
何かができるのは、誰かのおかげです。
むしろ積極的に人に声をかけましょう。
フットワークも軽やかに、自分から関係を作りにいきましょう。
 
 
先日、こんなことがありました。
朝の通勤中。
交差点で待っていると、
ふと前で待っている女性が背負っているカバンの口が
開けっぱなしになっていました。
中身こそ出てきそうにはありませんが、
それなりに開いていました。
その距離2mほど。
声をかけようか、どうしようか。
なぜかそこで私は迷ってしまいました。
 
信号が青になる。
歩き出す女性、その後ろを歩く私。
「追い越し際にそっと声をかけようか」
でもなかなか追い越せません。
すぐにまた交差点。
そのタイミングで声をかけよう、
そう思いましたが、
残念、交差点の信号は青。
しかも彼女は私とは違う方向へ行ってしまいました。
しばらくその女性の開いたカバンを目で追う私。。。
 
その日の午前いっぱいくらいは、
「あの人大丈夫だっただろうか」
「何か落としちゃったんじゃないかしら、
なんて心配になってないだろうか」
そんなことを考えて、少し集中にかけました。
 
なぜあの時すんなり声をかけなかったんだろう。
思い返してみると、そこには、
「声をかけたら変な人って思われるんじゃないか」
「むしろ自分が開けたって思われるんじゃないか」
「感染云々もあるし」
こんなことが頭の中を巡っていたように思います。
そのどれもが、
相手のためではなく、
自分の事ばかり考えていることに、
書いてみて気づきました。
 
困っている人がいれば助ける、
そこには自分がどうのこうのという感情はいらないはず。
でも、一度自分に意識が向いてしまうと、
相手と自分との間に壁ができてしまい、
その壁はなかなか壊すこと、超えることは難しい。
気づけば自分の世界に取り残され、
困っている人は困ったまま、
そこには発展も、明るい未来もなく、
あるのは何も変わらない世界だけ。
 
もし自分が相手の立場だったら、
カバンが開いていたら声をかけてほしいし、
自分で気づいて、
「あ〜あ、どうしよう」
なんて不安な思いはしたくない。
 
 
何もしなければ何も変わらない、
だけじゃなく、
見て見ぬ振りは、
その場でのエネルギー収支は0に見えて、
結果的に、
「ああすればよかった・・・」
とあれこれ思い起こすことで気分が少し落ち込んじゃったりするので、マイナスに傾いてしまう。
 
 
一歩踏み出す
壁を超える
ノリよく動く
 
ランニングと筋トレもぼちぼち続いているし、
もっと動いていこう。
 
 

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久々のベランダランチ

 

おしまい