迷って悩んでそれでも歩く

仕事、Yoga、日々の迷いや悩み

読書記録 痴呆を生きるということ

みなさまこんばんは。
昨日時間があったので読んでみました。
 
 
2003年が第一刷の本書。
今でこそ認知症という言葉が定着していますが、
こちらの書籍では「痴呆」のみで、
認知症という言葉が出てきません。
このページも、本書に合わせて、「痴呆」メインで使っています。
 
著者は京大卒の精神科医である小澤勲先生。
 
痴呆を病む人たちから見た世界、
その不自由さ、不便さ、
不安や憤りといった感情、
それらが小澤先生の詳細な観察のもと、
ありありと描かれています。
 
 
今読んでも、「なるほどなあ」と思うことがたくさん。
 
その中のいくつかを今回は紹介します。
 
 

第3章 痴呆を生きる心のありか

 
・痴呆を病む人の喜怒哀楽
”それが見えないのは、私たちが見ようとしていないだけである”
”診察室で一方的な視線に彼らをさらしても見えてこない”
 
認知症を患っている方達を見ていると、
喜怒哀楽が時に激しく、時に乏しく、
確かにわかりにくいことがあります。
 
そんな時、本書にもあるように、
「ぼけてしまえば、本人は何もわからなくなるのだから幸せですよね、
周りは大変でしょうけど」
と考えてしまうことが私にもありました。
 
本人の思いや気持ちにこちらが思いを馳せるといった、
日常診療ではごくごく普通にできていることが、
認知症というレッテルが少しでも貼られた途端、
どうもうまくできないことがあります。
 
それは、
「どうせ認知症だから、
今怒っていることも、今心配になっていることも、
すぐに忘れちゃうんでしょ」
という思考過程に基づいているように思います。
 
しかし、それはこちら側から見た世界の話であって、
やはり認知症患者さんから見た世界は違う。
少なくとも、彼らが感じている不安や怒りなどは、
然るべき理由があってのもので、
ただそれをうまく理解、表現できないために、
周りも当然よくわからず、
結果場当たり的な対応になってしまう。
 
病院で働いていると、
どうしても他の患者さんがいることもあり、
ゆっくり、時間をかけて、丁寧に、
患者さんが見えている世界を見ようとするには、
限界があるかもしれません。
ただ、それを
”見ない”
のではなく、
”見ようとする”
だけでも、
日々の診療の仕方、
スタッフの患者さんへの対応、
そういったものが変わっていくように思います。
 
 
・老いを生きる
”老いるということは喪失体験を重ねることである”
”問題は老いという事実、喪失という事実を、一人一人の老いゆく者たちが、
いかに自らの体験とするのか”
”痴呆を、そして老いを、名刺として考えるべきではない、
動詞として、つまり、ボケゆく過程、老いゆく過程として捉えるべきである”
 
ははあ…
老いる、その喪失体験の積み重ねを、
日々の生活の中で実感しながら生きていかねばならない…
それは不安にもなるし、怒りや憤りも出るでしょうね。
 
私は今30代。
年は毎年とるけれど、
それを成長とみるか、老いとみるか、
人によってはグレーゾーンと言い始める頃でしょうか。
 
認知機能が概ね保たれて生活をしていればいざ知らず、
認知機能が低下している状態での喪失体験は、
おそらくかなり不安です。
その不安にどれだけ寄り添えるのか。
 
”(認知機能の低下に)加速度がついた時期には、
多くの痴呆を病む人たちのこころにも、行動にも、
からだにも、大きなゆらぎが生じる。
そして、この時期の彼らのゆらぎ、
あるいは不安や焦燥にどれだけ寄り添えるかによって、
痴呆進行の加速度が間もなく減速してプラトーに達してくれるのか、
それとも加速度が衰えず、深い痴呆に至ってしまうか、
が決まるといって良い。”
 
病院に入院して認知症が一気に進んだ、
というのはよく聞く話。
おそらくは、病院という環境そのものが、
認知機能の低下に拍車をかけやすいことは確かですが、
かつ、そこに「寄り添える」時間や人が限られているということが、
ここでいう”加速度”にブレーキをかけることができず、
認知症が進んだ」という結果につながるのでしょうね。
 
ましてやこのコロナ禍。
面会も制限されている中で、
どこまで患者さんに寄り添えるのだろう。
 
 
・徘徊は一つの事象ではない
”漠然とした事象に一つの言葉が与えられると、
本来その事象が含んでいた様々な差異が無視され、
同一の事象と見られがちになる”
 
病棟を見ていると、
熱心にリハビリに励んでいる患者さんがいる一方で、
どうやらそうではないらしい方を見かけることがあります。
いわゆる「徘徊」です。
日中なら人手もいるので、一緒に歩いたりもできますが、
夜間はそうもいかず、
「徘徊している患者さんがいるので眠剤処方してください」
なんてこともしばしば。
 
著者は徘徊を便宜上5つに分けて紹介しており、
その種類によって、徘徊への対応も異なる書いています。
 
例えば”反応性の徘徊”。
馴染みのない場所に置かれることによって生じる
見当識障害と不安から、
硬く、不安げな表情で歩き回る徘徊。
入院して数日の方であれば、
誰しも病棟の地図は把握できず、
多少なりとも迷ってしまうことはあるでしょう。
 
こと認知機能の低下した方となると、
なかなかその新しい世界の地図を作ることができない、
あるいは覚えることができない。
目的の場所を求めて歩き回るのは、
当然といえば当然の話。
こういう類の徘徊の場合、
場所のポイントを決めて、
そこだけでもなんとか覚えてもらうようにすると、
徘徊が減るようだ。
これは日々の病棟でも使えそう。
 
 
・時の重なりが理解を超える
”さらに痴呆が進み、身体で通じ合う原初的関係性
とでもいうべきものさえ失われた痴呆末期の人はどうだろう。
そこでは、彼らのこころを理解することで
関係性をつくろうとする志に限界が訪れる。
”だが、そもそも人は理解が届かなければ人と関係を結び、
人を慈しむことができないわけではない。
食べる、排泄する、衣服を替える、入浴する、
そういった日常生活への援助を日々続ける。
そこから、「ただ、ともにある」という感覚が生まれる。
ともに過ごしてきた時の重なりが、理解を超える。”
 
う〜む…深い…深すぎる…
ここにきてマインドフルネスが見出されているあたりが、
すごいというか、すばらしいというか。
この最後の部分は、ただ読んで貰えれば、それだけでいいです。
 
 
以前、病院を移った先生から頂いていた本で、
最後まで読み切ってませんでしたが、
やっと読めました。
 
”老いるという喪失体験”を日々生きていく。
これを理解するにはまだ若すぎるのかもしれませんが、
少しでも見ようとする、
その姿勢だけでも忘れないようにしたいです。
 
 
朝投稿する予定がすっかり忘れていた…
 
 
おしまい。